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能登 一志

大榮木工の誕生 2

大榮木工の誕生2

戦後復興

昭和20年(1945年)に太平洋戦争が終戦を迎え、民主主義国家として生まれ変わった我が国ですが、戦火によって失われた220万戸に上る家屋の再建と、海外からの復員、引揚者600万人受け入れのための食糧、住居、雇用など様々な課題を抱え、日本の復興が始まりました。
戦後経済を襲った急激なインフレとデフレは、民間の復興の大きな妨げになりましたが、その風向きを変えたのが、昭和25年に始まった朝鮮戦争がもたらした特需景気です。日本経済は息を吹き返し、高度経済成長期が幕を開けます。

昭和22年に創業した大榮木工の全身となる大榮木工所は、創業当初は小割り業を営み、近隣の建具屋に部材を販売していましたが、より付加価値と利益率の高いものづくりを目指し、2年後の昭和24年に建具屋として再出発しました。
初めは数人の一人親方に声をかけ、わずか10人に満たないスタートでしたが、能代工業高校の機械科卒の強みを活かし、当時まだ珍しかった木工機械の導入も行ったようです。
創業者に先見の明があったかどうかは分かりませんが、運が大きく味方してくれたのは確かです。
翌年に朝鮮戦争が始まり、特需景気に後押しされ、日本全国で復興住宅の建設が始まりました。
首都圏を中心に建てられた復興・集合住宅では、その規格寸法に合わせた家具や建具の需要が爆発的に発生し、毎晩残業しても間に合わないくらい注文が続いたそうです。トラック山盛りに積んだ建具を、社長自ら首都圏の建具問屋まで運んで現金と交換していたそうですから、汗と埃と、やりがいに満ちた時代だったと思います。

地の利、天然秋田杉

当時、規格サイズの建具の製造・供給に一早く乗り出した地域として、栃木の鹿沼、埼玉の小川、そして秋田の能代がありました。その中でも、能代の建具屋の躍進を支えたのは、安価で豊富に手に入った天然秋田杉でした。
木曽檜、青森ヒバと並び、日本三代美林の一つに数えられる天然秋田杉は、緻密で整然と並ぶ美しい木目、そして狂いにくい建築材としての優れた性質によって、古くは戦国時代の築城に用いられるなど、日本全国に知れ渡るブランドでした。

緻密かつ、直線的な美しい柾目の天然秋田杉と荒目が目立つ一般の秋田杉

優美な天然秋田杉の障子が、復興住宅に使われていることは当時も話題となり、人気を集めたことからさらに需要が増し、しかもその良材が、他県の業者に比べて圧倒的に安く、地元の製材所や、材木屋から仕入れることができたのは、能代の建具屋にとって計り知れないアドバンテージになりました。

天然秋田杉室内戸(昭和40年頃製作)

復興が一段落する30年代初頭まで、時代を謳歌した能代の建具屋でしたが、その少しあとに「アルミサッシ」が登場し、業界の状況は一変することになります。

つづく

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能登 一志

能登 一志

社長

木製建具の専門メーカー「大榮木工」の三代目代表取締役、shinbokuのディレクターです。
建具の話、木の話、業界の話、ものづくりの話、民俗などがメインになります。
趣味は料理、写真、映画鑑賞など。よろしくお願いいたします。

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