
これまでの記事では、高橋さんの言葉を通して、能代スポーツセンターの歴史や、続けていく苦労や、これからのことを聞いてきました。まあ、普通はそこで終わりなんです。インタビュー記事としは。
でも長く続いてきた場所って、それだけじゃないんですよね。むしろ本当に面白いのは、話の本筋から少し外れたところにあったりする。いくつもの時代を飾ってきた12レーンの奥には、普段はお客さんが入らない機械室がある。薄暗いバックヤードがある。いつからそこにあるのかわからないお札や、日本人形や、もう使われていない古い道具が、いまも妙に堂々と残っている。古い建物の魅力というのは、案外そこにあるんです。
壁のシミとか、床の傷とか、誰も正確には覚えていない話とか。一つひとつは、ただの汚れだったり、置き忘れだったりする。でも、それが何十年も積み重なると、急に「味」になる。人間というのは勝手なもので、新しい建物のシミは汚れと呼ぶのに、古い建物のシミは歴史と呼ぶんですね。
ということで、蛇足もいいところですが、今回は番外編として、ちょっと変わった角度から能代スポーツセンターの魅力を見てみたいと思います。題して「能代スポーツセンター・ミステリーツアー」。けっして営業妨害ではありません。たぶん。高橋社長も多めに見てくれると思います。
これは、長く使われてきた建物にだけ染み込む、少し不思議で、少し可笑しくて、なぜか捨てがたい「影」の話です。
人形が集まるスポーツセンター


能代スポーツセンターのエントランスを入って、最初にお迎えしてくれるのがこの人形たち。なかなかのパンチ力です。
いや、これは、高橋さんの思い出の品々なんです。誰かにもらったりとか、どこかで買ったりとか、娘さんとの思い出が詰まっていたりとか。そういう、人生の断片が集まっている。でもこんなに集まってくるとさすがに、と言うか、もうこれ、夜中に歩いてるでしょって。
人形て不思議なもので、一体だけだと普通に可愛かったり、美しい。着物も立派だし、顔も上品だし、手仕事の細かさもある。日本文化の粋です。ところが、こうして何体も集まると、急に会議が始まる。
ひょうたんを持ち上げている人。
赤い髪の人。
籠に入っている小さい人。
白い衣装で、すべてを見届けているような人。
役割があるんですよ。誰が議長なのかは分からない。ただ、こちら側には一切説明がない。この「説明のなさ」こそ、日本的というか、日本的な怖さそものもなんですよね。たぶん、閉店後のなにかを、みんなで話し合っています。

まず気になるのが、この人です。ひょうたんを高く掲げている。満面の笑みでもない。苦しそうでもない。非常に静かな顔で、ひょうたんだけをこちらに見せている。何なんでしょうね。
「これを見ろ」ということなのか。「これはお前のものではない」ということなのか。あるいは、ひょうたんの中に何かいるのか。説明的なものは、何もありません。現代の商品なら、台座に名前や設定が書いてあるんですよね。でもこれは、何も教えてくれない。ただ、ひょうたんを掲げている。その説明不足が、一番怖い。

そして、この赤い髪の人。これはもう、非常に存在感がありますね。普通、人形というものは、長く置いておくと、少しずつ色が褪せて、周囲に馴染んでいくものです。ところが、この人は馴染まない。むしろ年月とともに、前へ出てきている。
「ここにいるぞ」
という感じが強くなっている。
髪もきれいに揃っていない。少し広がっている。一本一本が、独立した意思を持ち始めている。人形の髪というのは、整っていれば美しけど、乱れると、急に事情が変わってきます。まぁ、人間も同じですよね。身だしなみは大切です。

この人も、なかなかに 与謝野晶子(みだれ髪)。

日本人形の面白さって、表情がはっきり決まっていないことなんですかね。笑っているようにも見える。悲しんでいるようにも見える。少し怒っているようにも見える。昼に見れば穏やかでも、夜に下から照明が当たると、
「まだ帰らないの?」
という顔になる。これは人形が変わったわけではなく、見る側が勝手に変わっている。まあ、分かっていても怖いものは怖いんですけどね。これらの人形は、高橋さんにとって、一つひとつに思い出がある。物というのは、記憶の入れ物ですよね。だから捨てにくい。ところが、記憶の入れ物を大量に並べると、今度は記憶のほうがこちらを見始める。それが、この一角です。

極め付けがこれ。かなりの破壊力。娘さんの愛用の玩具だったそうです。でもそれをここに置く必要が?というツッコミは無粋。

背後にも抜かりなし!
これらの人形、けっして怖がらせるために置かれているわけではなく、むしろ高橋さんの楽しい思い出を、大切に置いているだけなんですよね。でも、ついついやりすぎて、置きすぎてしまって、少し怖くなってしまってる。ここが良いんですよね。
最初から怖がらせようとしたものは、案外怖くない。本当に怖いのは、誰も怖がらせるつもりがなかったものです。高橋さんの思い出が積み重なり、能代スポーツセンターの時間が重なり、人形たちは今も同じ場所にいる。
昼間は、昔懐かしい飾り物。
夜になると、館内の見回り担当。
そんなところでしょう。だから、この人形たちを見て、少し怖いと思っても失礼ではありません。たぶん彼らも、そのあたりはもう自覚している。むしろ、それを少し楽しんでいるように見えるんですよね。
生首が集まるスポーツセンター


いや、これはボウリングのボールなんですよ。当たり前ですけど。
ところが、こうやって正面から見ると、もう顔にしか見えない。上に穴が二つあって、下に一つある。目、目、口ですよ。しかも、一個だけならまだいいんです。人間の脳がたまたま顔と認識したんだな、ということで済む。でも、これだけ並んでいると話が違う。完全に晒し首置き場ですよ。三条大橋。
赤い首、茶色い首、真っ黒な首。それぞれ模様の入り方が全部違っていて、それがまた一首一首の個性を感じてしまう。ちょっとラメの入った、夜の商売をしていそうな紫色の首まである。整理整頓が徹底された結果、これが全部、こちらを見ている。まあ、見てないんですけどね。
しかも、この生首には重さが書いてある。10ポンドとか、12ポンドとか。普通、生首に重さは書きませんからね。
「こちらは10ポンドの首になります」
なんて説明されても困ります。ところが、ボウリング場では非常に合理的に分類されている。重さだけじゃなく、指を入れる穴の大きさまで違う。つまり、誰にでも合う生首が用意されているわけです。子ども用もある。大人用もある。力自慢の人用もある。非常に利用者に優しい生首なんです。
でも考えてみると、ボウリングのボールというのは少し不思議ですね。人間が力いっぱい向こうへ投げると、床下の暗いところに吸い込まれて、しばらくするとまた帰ってくる。ゴトン、と。
これ、ホラー映画だったら完全に呪われた物の動きですよね。捨てたはずの生首が戻ってくる。また投げる。また戻ってくる。しかも、何事もなかったような顔で、手元に収まっている。
「さあ、もう一度どうぞ」
と。非常に打たれ強い。人間なんて、ガターを一回出しただけで、もう今日は調子が悪いとか言い始めますからね。でも、ボールは違う。何も倒せなくても戻ってくる。傷がついても戻ってくる。次に投げられるまで、黙って待っている。そう考えると、だんだん生首というより、人生の先輩に見えてきませんか?
新しいボウリング場だったら、ここまで顔には見えないかもしれません。でも、能代スポーツセンターには、長い時間が残っている。人の手で磨かれたところ。何度も触られて色が変わったところ。機械の油や、床の傷や、少し暗い物陰。
そういう場所に置かれていると、物がだんだん顔を持ち始めるんです。もちろん、本当に顔があるわけじゃない。でも、何十年も人に使われてきた物には、何かが宿って見える。怖いというより、味がある。
味がありすぎて、たまに生首に見える。
というだけの話なんです。だから、能代スポーツセンターでボールを選ぶときは、重さや指の太さだけでなく、顔つきも見てほしい。気の合いそうなやつを選ぶ。少し疲れた顔でもいい。むしろ、そういうやつのほうが、いざというとき頼りになるかもしれません。何しろ彼らは、どれだけ遠くへ投げられても、必ず帰ってきますからね。
能代スポーツセンターには、入ってはいけない場所がある



ボウリングのボールが生首に見えるとか、人形が夜中に会議していそうだとか、音の出ないスピーカーが昔の呼び出しを待っているとか、まあ、全部こちらの想像の話じゃないですか、古い物を面白がって、少し怖く見立てているだけで、言ってしまえば、ネタです。
でも、この機械室はちょっと違う。ここは、こちらが無理に怖がろうとしなくても、向こうから勝手に怖さを出してくる。

その機械室から外に通じる扉に、紙が一枚貼ってあります。何の意味がある文字なのかよく分かりませんが、漢字と梵字が混ざったお札のようです。水とか火とか、刀という時が見えるので、恐らくは水害、火事、強盗など、害なすものを遠ざけるお札なんでしょうね。というか、そもそも、こういうものを写真に撮って良かったのか。記事を書いている時点で、もう少し遅いんですけどね。
能代スポーツセンターは、五能線の線路のすぐそばにあります。高橋さん曰く、線路は、人や物だけでなく、様々なものの通り道になっているのだとか。昔の人にとって、道というのは単なる交通設備ではありません。人が通る道には、人ではないものも通る。特に線路は、真っすぐ長く伸びて、夜になってもどこかへ続いている。境界としては非常に優秀なんです。
大事なのは、お札があることではありません。誰かが、貼る必要があると思ったことです。何もなければ、普通は貼りません。風水が好きだから、という程度ならまだいい。ただ、線路沿いには魔が潜む。だから、この入口に札を貼った。そういう話が残っている。ここで急に、これまでのホラーごっこと温度が変わります。
ボールの穴が顔に見えるのは、人間の脳の錯覚です。でも、お札は誰かの意思です。誰かが何かを恐れ、何かを防ごうとして、実際にそこへ貼った。人間の恐怖が、物として残っている。これは少し笑いにくい。一気に首の後ろ側や背中全体が、ざわざわざわざ、としてきました。

そしてこれ。鏡が外された機械室の手洗い場。お札を用意した方に、外した方が良いと言われて外したそうですが、さっきのお札と、薄暗い空間全体の不気味さのせいで、鏡を外した跡にすら怖さを感じます。だって、何かがあるより、何かがあった後の方が、想像の入り込む余地が大きいですからね。ここにもお札があったのか?それが何らかの理由で剥がされたのか?だとしたら誰が?みたいな。
というか、鏡って御神体として神社に奉納されていたり、古代は魔除けに使われているイメージだったのですが、鏡を置くことがタブーて、どういうことなんでしょうね?ネットで調べても、それらしい根拠は出てきませんでした。でもその疑問に、一つの答えを投げかけた光景がこれでした。

ロッカールームのひび割れたガラス窓。これも演出のようで演出ではないところに、高橋さんの「らしさ」を感じて微笑ましい。これをみると、もしかして洗面所のガラスも割れヒビが入っていたのかなと。もしそうなら、私でも「外したら?」って言いますね(笑)そして もちろん、ロッカーの中には入ってるわけですよ。生首(ボール)が!
あとがき
今回、能代スポーツセンターの中を歩いてみて、あらためて思ったのは、長く続いている場所というのは、きれいな思い出だけで、できているわけではないんですね。少し暗い場所があって、理由のわからないものが残っていて、誰に聞いても話が少しずつ違う。壁にはシミがあり、床には傷があり、お札もあれば、日本人形もある。
普通の施設紹介なら、たぶん全部省きます。明るい写真を撮って、元気な笑顔を載せて、「地域に愛される施設です」と書けば、それで十分です。でも、それだけでは、この場所の半分しか伝わらない気がします。長く使われてきた建物には、表と裏があります。表には、人の笑い声や、ピンの倒れる音や、何度も通った人たちの記憶がある。そして裏には、機械の音や、薄暗い廊下や、誰も気に留めなくなったものたちが残っている。その両方があって、ひとつの場所になる。
新しい建物には、まだ何も染み込んでいません。それは清潔で、便利で、明るい。でも少しだけ、話がない。能代スポーツセンターには、話がありすぎる。しかも、全部きれいには整理されていない。そのあたりが、実にいい。歴史というのは、年表に並べられた出来事だけではありません。人が忘れたあとも残っている傷や、誰も説明できないお札や、妙に存在感のある人形も、立派な歴史です。
もちろん、怖い話にしたいわけではありません。むしろ逆です。こういうものが残っているということは、それだけ長く、人がここを使い続けてきたということです。建物は、使われなくなると静かになります。でも、使われ続けた建物は、どこか少し騒がしい。人がいなくても、気配が残る。能代スポーツセンターに少しだけ何かいるとすれば、それは幽霊ではなく、ここで過ごした人たちの時間なのかもしれません。
まあ、本当に何かいた場合は、話が変わってきますが。そのときは、まず高橋さんに確認してみたいと思います。
できれば、明るい時間に。
